衛生学のページ kimuakilabo

1 衛生学のはじまり 目に見えない命を脅かすものって誰でも怖い ペッテンコーファーとコッホの物語
2 衛生の概念 
3 生活の中の衛生学 食品の安全性
4 食品衛生・細菌性食中毒
5 食品衛生・自然毒食中毒

6 食品衛生・食品添加物
7 食品衛生活動
8 ジョンスノウの物語 水の衛生
9 飲料水の安全性
10水質汚濁  環境衛生の物語 最近の課題フッ素

11居住環境の安全管理
12大気汚染 東京のばい煙をめぐるPV
13化学物質の健康影響
14環境管理の重要性
15精神衛生 再び目に見えない人間の健康を脅かすものとは




1 衛生学のはじまり 目に見えない命を脅かすものって誰でも怖い ペッテンコーファーとコッホの物語

問1 衛生学を人類が求めた理由には、どのようなことが考えられるでしょう
問2 ペッテンコーファー先生とコッホ先生のそれぞれの衛生学の考え方の相違点を挙げてみましょう
問3 歴史はどう審判を下しているのでしょう



人は目に見えないものが命を脅かすことへの本能的恐怖をもちます。
 (生存本能だと思われる)。


 見えないものへの恐怖に対抗するための人類のあり方をみると、命をめぐる歴史は、教会と一般市民の関係に、ヨーロッパでは教会、日本でもお坊さんのいる神社仏閣(寺と神社の分離の歴史が始まる以前として)の中で、個人に対する治療的行為を行っていたという記録があります。

 紀元後の時間の中で、客観性を獲得したいわゆる科学的な方法で、この見えない命を奪う原因が顕微鏡で発見された細菌の存在によって説明できるようになったことから、今、私たちが普通に行っている手洗いやマスクの着用に至る対策の合理的説明が可能になりました。

 この歴史のドラマは、ドイツ(旧 プロイセン)で熱いバトルを繰り広げられてきました。よく名前が出てくる日本の研究者も登場してくると、なんか身近に感じてワクワクします。


 さて、このような科学的手続きによって作られた学問のことを


衛生学と言います。

 ネットで調べてみましょう。

 その一例をみましょう。

 医学の一科目。個人および社会公衆の健康維持と向上を目的とする学問。遺伝をはじめ、外界の影響について研究するもの。

 「精神衛生学、優生学、公衆衛生学、社会衛生学、予防医学のほか、学校や工場、都市や農村などの集団衛生学や、医事統計学などが含まれる。」 というものがありますが、初めて学ぶ人には、わかりにくいかもしれません。一度勉強した人がまとめて書けばこう書く方が整理されて、無駄がない説明になっていると思います。



 
そこで、私が初めて学ぶ人へのおすすめは、誰が始めたか、という問いをもつことから初めることです。



 起源 誰が始めたのか?

 心身の健康の保全を研究する学問。単に病気を予防するだけでなく,個人および集団の健康を保持するとともに,身体的,精神的さらに社会的な機能を十分に発揮させ,また子孫の心身にも異常のないように,予想できるかぎ りの配慮をするための理論と方法を研究する学問。

 その原型は先史時代の古墳やその発掘物からもうかがうことができる。有史時代になると,エジプト人は前 1600年頃,すでに腸内寄生虫,ハンセン病,眼疾患についての研究を行なっており,皮膚の清潔法や有害食物,飲用水への注意,住環境の衛生法などが実施されていたと考えられる。


 その後,ギリシア・ローマ時代を経て,衛生法はさらに発展し,浴場や水道,墓地などが整備された。近代に入ると,疫病の大流行や都市への人口集中などを背景に,ヨーロッパの先進国で衛生法規が整備されていった。

1866年,ペッテンコーファー Max von Pettenkofer (1818~1901) がミュンヘン大学に衛生学講座を開設し,科学としての衛生学を確立した。以後,病原微生物の発見により,病原体の滅殺,感染経路の遮断,免疫方法の開発などにより,大きな問題であった感染症対策と環境の整備が行われるようになった。

(出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)



この物語で欠かせない先生は・・・



ペッテンコーファー Max von Pettenkofer (1818~1901)


      ミュンヘン大学に衛生学講座を開設し,科学としての衛生学を確立した。



(wikipediaより)

幼少期〜初期の研究

ペッテンコーファーは、1818年にバイエルン王国(現:ドイツ連邦共和国バイエルン州)のドナウ流域リヒテンハイムの貧しい農家の第五子として生まれた。8歳のときに、ミュンヘンの王立施設で主任薬剤師として成功していた叔父に預けられ、その庇護の下西洋文化と思想についての十分な教育を受けた。優れた成績で、彼の教師から言語学研究に進むことを嘱望されながらも、後継者を求めていた叔父の望みに応えるべく薬剤師としての道を選んだ。

1837年から1843年にかけて、途中で俳優を志して一旦中断したものの、ペッテンコーファーは薬学を修め1843年に薬剤師免許を取得した。1839年1841年には薬学に加えて、医学生としてもミュンヘン大学に学生登録した。この頃すでに医化学研究者としての卓越した才能を見せ、1842年には従来よりも簡便かつ高感度な新しいヒ素の検出法を開発して学会から賞賛された。1843年3月には薬剤師免許を、また同年6月には、当時ミュンヘンで蛇毒やコレラの治療に有効とされて用いられていた中南米産の薬用植物、ミカニア (Mikania guaco) の薬理作用に関する論文で、医学博士号を取得した。医学と化学の両方に精通したペッテンコーファーは、1844年ヴュルツブルク大学のヨーゼフ・シェーラーと、ギーセン大学のユストゥス・フォン・リービッヒから奨学金を得て、彼らの下で医化学研究に従事した。この期間に彼は胆汁クレアチニンなどの生体物質を検出するための重要な化学反応を発見し、生理学の分野で多大な貢献を果たした。

ミュンヘン大学ではペッテンコーファーを呼び戻すために、医化学講座を新設してその長に就任させる計画が持ち上がったが、政府が資金難を理由に新講座の設立を許可しなかったため、計画は頓挫した。このために大学での職が得られなかったペッテンコーファーは1845年にミュンヘンに戻り、王立造幣局に就職した。ここでも彼は直ちにその才能を発揮した。当時の造幣職人たちは、古い硬貨を融かして再び鋳造するとき、再生分離したが不純物として混入し、純度が落ちてしまうことに頭を悩ませていた。ペッテンコーファーはその原因が元の金に含まれていた白金によることを見抜き、同時に高純度の金、銀、白金をそれぞれ再生可能な分離法を考案した。師のリービッヒにも「エレガントな方法」と絶賛されたこの功績に対して、政府はペッテンコーファーを由緒あるバイエルン科学アカデミーに加え(1846年に準会員、1856年に正会員)、さらに1847年にはミュンヘン大学医学部の病理化学講座の助教授として大学研究者としての職を与えた。また1849年にはバイエルン内政府の医療顧問になり行政における発言権を獲得、1850年には宮廷薬剤師としての地位に就き、1853年、35歳のときにミュンヘン大学医学部の有機化学講座の正教授に着任した。

ミュンヘン大学時代

ミュンヘン大学では主としてヒトの代謝と栄養に関する研究を行い、1862年には助手であり親友でもあったカール・フォイトとの共同研究で、ヒトが入ることの可能な大型熱量計を開発してヒトの生理的熱量の測定法を確立し、呼吸と代謝に関する実験で成果を上げた。

またペッテンコーファーは医学、薬学、化学など多岐の分野に精通していただけではなく、実験科学の考えに根ざした実証的な検証と、複数分野を有機的に結びつけた科学的世界観を有していた当代屈指の研究者であった。その業績は医化学にとどまらずに多岐に亘り、そのいずれもが科学、行政、産業、美術に多大な影響と貢献を果たした。

セメントの改良
当時のドイツのセメントは質が悪くて建築用途には利用できず、イギリスから輸入したものを用いていた。1849年、この件について相談を受けたペッテンコーファーはセメントの製法を検討してイギリス産の高級品と同等の品質に改良した。
色ガラス複製品の開発
美術品に用いられていた古代ガラス(アヴェンチュリンやヘマチンなど)のイミテーションを作るために必要な色素を開発した。この業績によって、芸術を愛したことでも知られるルートヴィヒ1世に認められたといわれる。
廃材から可燃性ガスを生産する方法の開発
当時灯火用に使用されていたガス灯は、石炭から作り出した可燃性ガスを燃料としていたが、ドイツ南部の森林地帯は石炭の産地に遠く、その十分な供給を賄うことができなかった。1851年、この件について相談を受けたペッテンコーファーはこの地域に豊富な木材および廃材を一度炭化して木炭を作り、それから可燃性ガスを産生するという方法を開発した。この木炭ガスを用いたガス灯はドイツ南部やオーストリアハンガリーの各都市に波及し、やがてドイツの全鉄道駅に取り付けられた。
電線の亜鉛メッキの技術提供
当時、バイエルン鉄道では電線亜鉛メッキした線を利用していたが、ペッテンコーファーは担当者からの助言要請に応じて、鉄線を酸素や雨などによるダメージから守るためには、どのくらいの厚さの亜鉛メッキが必要なのかについて明らかにし、化学知識がない人にもできる厚みの検査方法と、厚みを調整する可能な製造方法を回答した。
油絵表面に生じた灰色サビの原因解明と対策
1861年、美術品として蒐集された油絵の表面が、灰色のサビ状のものに覆われるという原因不明の現象がヨーロッパ各地で発生した。この件について相談を受けたペッテンコーファーは、この現象が油絵に含まれている亜麻仁油が湿気に晒されて微小な水滴が内部に生じたためであることを解明し、含水アルコールによる除去法と、灰色サビが生じにくくなるような画材の開発に貢献した。このペッテンコーファーによる発見は美術館における湿度コントロールの重要性を広く知らせるものとなった。

これらの研究はバイエルン王国やミュンヘン市民の要請に応じてなされたものが多く、事前に他の専門家に相談したものの解決できなかった問題が多かった。しかし、ペッテンコーファーは直接の専門分野でない難問でも見事に解決した。なお、これらの研究は今日であればそれぞれ特許を取得して大きな利益が得られるほどのものであったが、ペッテンコーファーがこれらの研究成果を独占して直接の利益を得ることはなく、あくまで国家と国民のために行ったといわれる。折しもヨーロッパでは国家主義の風潮が強まりつつあった中、ペッテンコーファーはこれらの業績によってバイエルン科学界のリーダーとしての地位を獲得していった。やがて間もなく、1871年ドイツ統一によってバイエルン王国がドイツ帝国に統合されると、首都になったベルリンを含むドイツ北部地域とバイエルンなどを含む南部地域は、互いに競争しあうライバルのような存在になり、ややもするとドイツ南部は「野蛮な、田舎者の住む」地域だという揶揄を受けることもあったが、その中においてペッテンコーファーはバイエルンの先進性をアピールする、ミュンヘン市民やバイエルン王国民の誇りと呼べる存在でもあった。

コレラの複合病因説と衛生学

19世紀の中頃から20世紀にかけて、ヨーロッパは度重なるコレラの大流行(パンデミック)に見舞われていた。コレラの猛威は個人の生命を脅かす医療上の問題だけでなく、経済的、社会的、法的な問題をも引き起こした。今でこそ、コレラの原因がコレラ菌であり、コレラ患者の便に混じって排出された細菌が水や食物を汚染して、別のヒトに感染することが判っているが、当時はまだ細菌が病気の原因になりうるということすら知られておらず、病気が起きるメカニズムについては二つの仮説が立てられ、そのどちらが正しいかについて論争が続いていた時代であった。

二つの仮説は、それぞれミアズマ瘴気コンタギオン接触性伝染体と呼ばれる。ミアズマ説はコンタギオン説より古い学説で、毒によって汚染された沼などから立ち上る「悪い空気」(=瘴気、ミアズマ)などの汚染物質に触れることでヒトは病気になるという考え方である。一方コンタギオン説は、患者から患者に直接伝染しうる「接触性伝染体」(コンタギオン)が存在し、これと接触することによって病気が発生するという考え方である。しかし当時から既にどちらの学説にも不備があることが指摘されていた。ミアズマ説では流行地に行ってきた人が感染源になって別の土地で流行を引き起こす現象を説明することができなかったし、コンタギオン説では患者と間違いなく密接に接触している医療関係者が必ずしもコレラに罹らない理由が説明できなかった。

このような時代背景の中、ペッテンコーファーがバイエルン王国政府のコレラ対策委員会の一員として研究に着手したのは1849年のことであった。当初、彼は分析化学の手法を用いて患者血液や糞便などの分析を行ったが何の成果も得られず、ついには化学はまだ発展途上であって、コレラの謎を解くことはおろか、その発症に関わる基礎研究としての役割も果たせないのだと結論づけ、「糞尿を化学分析したところで脈をとるほどの成果も得られない、時代遅れの方法だ」という言葉まで残している。

病気を解明するための分析化学に見切りを付けたペッテンコーファーは、疫学にその解答を求めた、大規模なデータに基づいて、彼はコレラの病原体が腸管内部に存在しており、ヒトの糞便を用いて広まるという仮説を打ち立てた。ただし彼が考えたこのコレラ病原体はそれ自身が単独でヒトに接触しても発病させることはなく、土壌に存在している何らかの腐りかかった物質と混ざり合うことで、コレラ直接の原因になる環境汚染物質を作り出すというものであった。この病原体に対する学説はミアズマ説に近いものの、旧来のものとは異なりコンタギオンの存在を認めた上で環境汚染こそが病気の主因になるとする新しい第三の学説であり、「複合病因説」と呼ばれた。

この説に基づいて、ペッテンコーファーはコレラの流行を防ぐためには土壌から腐敗性の物質を除くことが重要であると考えた。特に生活排水や産業廃水が土壌に混じることを避けるために上下水道を整備することの重要性を政府と市民に強く訴え続けた。中でも1873年にミュンヘン市民に向けて行った講演では、イギリスの上下水道整備による死亡率改善の結果から綿密な計算を行い、ミュンヘンでは年間35万フローリンもの節約につながることを示した。このことは市民の健康維持、すなわち公衆衛生が行政にとって莫大な価値があることを具体的に示した初めての例だといわれている。これらの意見を受ける形でミュンヘンを中心に上下水道の普及が行われ、結果的に(患者から排泄されたコレラ菌が処理されることで)コレラの流行拡大にも歯止めがかけられた。また同時に、当時のヨーロッパで流行していた腸チフスによる死者も減少した。

これら一連の活動によって、衛生学は医学上で重要な学問として認識されるようになり、1875年以降、ミュンヘン大学をはじめとするドイツの大学の医学部では衛生学の講義が行われるようになった。そしてペッテンコーファー自身は近代的な公衆衛生の第一人者として、1876年(*)にはドイツ初となる衛生学講座をミュンヘン大学に創立し、その初代教授に就任した(*講座としての正式な設立は1879年だが、ペッテンコーファー自身は準備期間等を含めて1876年を創立年だと考えていた)。

衛生学に関する代表的書物をいくつも著し、また1883年には衛生学分野の科学論文雑誌「Archiv für Hygiene」(Archive for Hygiene) を創刊した。この科学雑誌は衛生学研究の中心的な役割を担うものになり、多くの医化学研究論文が投稿、掲載された、この科学雑誌は後にInternational Journal of Hygiene and Environmental Healthと名前を変え、2005年現在に至るまで継続している。

これらの業績によって、衛生学は当時のヨーロッパで医学分野の花形として中心的な役割を果たすものと考えられるようになり、ペッテンコーファーもまたドイツだけでなくヨーロッパにおける医学衛生学の権威としての地位を確立した。

細菌学者らとの論争とハンブルク事件

1876年ロベルト・コッホ炭疽菌を発見し、これが動物の炭疽の原因であることを証明した。さらに1882年に結核菌を発見したことによって、ヒトにおいても細菌こそが病気の原因であり、それがいわゆるコンタギオンとして伝染しているという「細菌=病原体説」が提唱され、細菌学が一気に医学分野の最先端として隆盛を迎えた。しかし病気の原因が環境汚染にこそあると考え、公衆衛生の重要性を第一に考えていたペッテンコーファーは、この説に異論を唱え、しばしば細菌学研究者と論争を起こした。例えば、1888年にはパリの灌漑農場拡張事業の是非を巡って、病原細菌が灌漑地に蓄積される危険性を指摘し反対の立場をとったルイ・パスツールに対して、「細菌学者の机上の理論でしかない」と反論し、灌漑賛成の立場をとった。

ペッテンコーファーが行った論争のうち、最も有名なものはコレラに関するものである。ペッテンコーファー自身は、上述したように、コレラ発生の原因として複合病因説を提唱して、自他ともに認めるコレラ研究の第一人者になっていたが、1883年にコッホがコレラ患者からコレラ菌を分離し、本菌こそがコレラの病原因子であると主張したことで、ヨーロッパ医学界を二分する大きな論争に発展した。

また、ペッテンコーファーは、衛生学の第一人者として細菌学者らと論争しただけでなく、同じ衛生学の分野でも論争を起こしていた。イギリスでのコレラ流行時に初めて疫学調査を行ったスノーとは、公衆衛生の実践方法として、上水道に対する見解の違いで対立した。疫学調査から水源(井戸)の重要性に注目して上水道の整備を重要視したスノーに対し、ペッテンコーファーは、上水道の重要性について認識していなかったわけではなかったが、むしろ下水道の整備こそが重要であるとの考えを曲げなかった。イギリスの一開業医に過ぎなかったスノーと、すでにドイツ医化学界の重鎮であったペッテンコーファーという、立場の大きく異なる両者の論争だったが、これもヨーロッパを二分する衛生学上の大きな論争になった。

この後者の論争については、1892年8月に起きたドイツハンブルクでのコレラ流行のときに終結を迎えた。当時、ハンブルクとその近郊のアルトナという二つの都市は、人口規模も同程度で、同様の下水処理施設を保有し、同じエルベ川の水を水源としていた。しかし、この2つの都市では上水処理方法にのみ違いが見られた。ハンブルクではペッテンコーファーの説に従い、短時間沈澱処理という簡便な上水処理だけを行っていたのに対し、アルトナでは緩速砂ろ過処理という、より厳密な上水処理が行われていたのである。そして1892年のコレラ流行では、ハンブルクで8500名のコレラ患者が出たのに対し、アルトナではわずかな患者が出るにとどまった。この結果は、コレラの予防における上水処理の重要性を如実に示したものであり、ペッテンコーファーは論争に敗れたことを認めざるを得なかった。

コレラ菌自飲実験とその晩年

スノーら上水道論者との論争に敗れたペッテンコーファーは、同1892年10月に、もう一つの論争に決着をつけるべく行動を起こした。すでに、その後の細菌学の発展に伴いさまざまな病原細菌が発見されることで、コッホとの論争でも次第に劣勢になっていたペッテンコーファーは、自らコレラ菌を飲んでも発症しないという証拠を示すことで、コッホの提唱したコレラ菌病因論を否定して自説の正しさを実証しようと試みた。

コレラ菌自飲実験は、「近代実験医学の父」とも呼ばれたペッテンコーファーらしい、綿密な実験計画に基づいて行われたものであった。実験の公正を期すために、コレラ菌は予めコッホが培養し送付したものが用いられ、発症に十分だと考えられていたよりも遥かに多く、10億個以上(軍の一個支隊を壊滅させることができると言われる)の生きた菌が存在していることを確認した上で用いられた。さらに実験に先立って重曹液を服用して胃酸を中和し、胃の殺菌作用による影響を除外するという点まで配慮された。実験は10月7日から行われ、翌日にはペッテンコーファーには何の異常も現れなかった。10月9日午後から下痢の症状が現れ、13日まで水様の便が続いた後、15日になって正常に戻った。しばしば誤解されることであるが、コレラとはあくまで激しい下痢だけではなく脱水症状を伴う疾患であり、ペッテンコーファーはコレラ菌によって激しい下痢を起こしたもののコレラは発症しなかったのである。さらに実験期間中の糞便は細菌学的な検査に回され、その中からコレラ菌が分離されることも確認された。この結果は、コッホが提唱したコレラ菌=病原説の欠陥を指摘するものとなり、ペッテンコーファーはコッホのいうコレラ菌とは、コレラとは無関係な、あるいはせいぜいコレラに伴う下痢の原因にはなるものの脱水症状には無関係なものであるとして、自説への確信を一層強めた。

しかし同時代の他の研究者によって自飲実験が追試されると、事態は当初ペッテンコーファーやコッホらが考えていたものよりも複雑であることが判明した。例えば、ペッテンコーファーの弟子であり、同様に自飲実験を志願して行ったルドルフ・エメリッヒは、コレラによる脱水症状で危篤状態に陥り、その後一命だけは取り留めた。また、20世紀初頭にイリヤ・メチニコフが行った自飲実験ではペッテンコーファー同様、下痢のみでコレラは発症しなかった。このように、同様の実験においてもその結果がまちまちであり、コレラ病因論は対立する二説の間で明確な結論が出ないまま、再び紛糾することとなった。

自飲実験が終わった後もしばらくは、依然ヨーロッパ医化学界の権威として活動したペッテンコーファーであったが、まもなく高齢ゆえに表舞台に姿を現さなくなった。そしてうつ病を発症し、1901年2月10日、ミュンヘンの自宅でピストル自殺を遂げた。遺体はミュンヘン南墓地に埋葬された。

評価

ドイツ、特にミュンヘンなどの南部地方で活躍し、下水道の普及の大きな原動力になったことから、ドイツでは非常によく知られ尊敬を集めている人物の一人である。また本来の専門とは異なる科学分野の多岐にわたる活躍も高く評価されている。しかし晩年に大きな論争で敗れたことも影響して、ヨーロッパ圏以外での知名度はあまり高くない。

コレラ菌を巡るスノーやコッホとの論争においては、当時すでに医化学界の重鎮であったペッテンコーファーを権威主義者と位置づけ、これに対する市井の一開業医(スノー)や、新進気鋭の若手研究者(コッホ)という対立の構図で、いわば「敵役」として描かれることも多い。

コレラ菌の自飲実験については、医学倫理上の是非を巡って、研究者自身の生命に危険を伴う実験が許容されるかどうかという論争が実験直後から巻き起こった。いかに確信があるとはいえ致死量を超えるとされる量のコレラ菌を飲んだペッテンコーファーの行為は、現代でも、しばしば向こう見ずな愚行として批判に晒されている。しかしペッテンコーファーの行動は、ベルナールが「実験医学序説」に著わした指針、すなわち「たとえ科学の発展や大多数の人の幸福につながるものであっても、被験者にとって害にしかならない実験をしてはならない。この原則の例外は自己実験のみである」とする、人体実験の禁止という19世紀の当時の実験医学倫理に忠実なものだったという評価もある。例えば、これに対してイリヤ・メチニコフは梅毒に対するカロメル(甘汞、塩化水銀I)軟膏の治療効果を確認するために、メチニコフ自身ではなく志願した学生に梅毒を感染させる実験を行い、非難の対象となったことがある。

なぜペッテンコーファーがコレラ菌を飲んでも発症しなかったのかという正確な理由は不明である。たまたまペッテンコーファーが飲んだコレラ菌が、実験室での培養を繰り返すうちに弱毒化していたのではないかという説や、あるいはペッテンコーファーが病気にかからないという信念を持っていたことによるプラセボ効果ではないかという説まで、さまざまな説があるが、一般には、何らかの理由によってペッテンコーファーがコレラ菌に対して抵抗性を持っており、発症したエメリッヒはその抵抗性が弱かったためだという、宿主側の抵抗性によって説明されることが多い。ペッテンコーファーは若い頃に一度、コレラに罹患したことがあったため免疫を獲得していたのではないかということや、また血液型がO型の人間はコレラ菌に対する抵抗性が弱いということが後に明らかになり、このことが一連の実験結果に影響していたのではないかということも指摘されている。いずれにせよ、それまでのコッホの細菌病原論においては、病原体である細菌の特性のみが注目されていたが、実際の病気の発症には、病原体側だけでなく宿主側の要因も大きく関与していることが、その後の研究から明らかになった。そのため、コッホが最初に提唱したコッホの原則が絶対的な原則ではないことが明らかになり、それが日和見感染症などの発症メカニズムの解明にもつながった。

日本との関わり

ペッテンコーファーは、ドイツ国外からの留学生も多く受け入れた。その中には後に東京大学衛生学講座の初代教授になった緒方正規や森林太郎(森鷗外)らも含まれた。彼らは帰国後、日本の医学界に衛生学の考えをもたらし、公衆衛生的な観点から上下水道整備の重要性を説いた。初代衛生局長として、日本の公衆衛生の発展に寄与した長与専斎も、ペッテンコーファーがその整備に関与した、ヨーロッパの上下水道整備を視察している。

森鴎外はドイツ留学直後の1885年にペッテンコーファーに師事し、後に北里柴三郎の勧めで、ペッテンコーファーと対立していたコッホにも師事したが、「ペッテンコーファーは環境と下水道を、コッホは病原細菌と上水道を、それぞれに重視し、もう片方を軽視する傾向がある」と評しながら、自分自身はペッテンコーファーよりの衛生学的な立場を選んだといわれている。鴎外はペッテンコーファーを敬愛しており、初孫の名前である真樟(まくす)は、ペッテンコーファーの名前から名付けたといわれる。さらに鴎外が陸軍軍医時代に脚気の病原菌説に固執し、陸軍兵卒に多くの被害者を出した遠因を、彼の師であるペッテンコーファーが細菌学に敗れたことへの反省に結びつけて考える者もいる。

しかしペッテンコーファーの死後、ヨーロッパにおける細菌学のさらなる隆盛と、日本にそれを持ち帰った北里ら北里大学のグループの世界的活躍によって、日本では衛生学および下水道の整備が軽視される方向に向かったともいわれており、これが日本での下水道普及率の低さの遠因とする考えも存在している。

参考文献



まとめ


 ドイツの衛生学者。化学的方法を衛生学に導入した最初の一人で,環境衛生の改善が死亡率を低下させるという立場から,ミュンヘンの衛生行政を著しく発展させた。農民の子として生まれ,当初は俳優を志したが,後に薬剤師となり,さらに医学を学ぶ。

ビュルツブルク大学とギーセン大学で,J.vonリービヒについて生理学的・化学的研究に従事し,1852年ミュンヘン大学生化学教授となる。弟子であり友人でもあるフォイトCarl von Voit(1831-1908)とともに人体用呼吸計を開発し,人間の代謝と栄養に関する一連の重要な実験を行い,近代衛生学における実験化学的方法の基礎を築いた。


また《衛生学雑誌》と《生物学雑誌》の刊行に際して指導的役割を果たし,82年にはツィームセンHugo von Ziemssenとともに《衛生学提要》を出版。後者は長期にわたって,衛生学の標準的教科書として高い評価をうけた。

感染症の発生については,R.コッホらの病原細菌説とは対立する理論を展開し,人体の側の要因と環境の要因を重視した。


彼はこの立場から,環境衛生の改善を市民や行政当局に説き,とりわけ73年にミュンヘン市民に向けて行った啓蒙的講演〈都市にとっての健康の価値について〉は有名である。彼はこれらの講演の中で,ロンドンにおける上下水道工事による死亡率の改善の経験をもとにして計算を行い,ミュンヘンでは1年に34万6800フローリンの節約が可能なことを明らかにした。

また,健康の保持と改善のための投資ほどすぐれた投資はないと主張した。
執筆者:日野 秀逸

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について


生 1818.12.3. リヒテンハイム
没 1901.2.10. ミュンヘン近郊

ドイツの衛生学者,化学者。衛生学に初めて実験科学の方法を取入れ,近代衛生学の基礎を築いた。

1843年ミュンヘン大学で学位を取得,

47年同大学定員外教授で医化学担当,

53年同正教授,

65年衛生学教授。

R.コッホらの細菌病原説に反対し,腸チフスのような伝染病は地下水が低位にあるときに起り,その病原体は患者から健康人に直接侵入するのではなく,土中で繁殖してから地下水を通じて伝播されるという説を唱え,

自説を立証するため,みずからコレラ菌培養肉汁を飲んでみせた。

また,ミュンヘン市の下水道を完成させ,腸チフスを一掃した。

生化学面でも胆汁や蛋白質についての業績を残したが,「無用の者は去るべし」という平素の信条を実践して自殺した。


出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事



そして、衛生学の歴史には、もう一人の登場人物がいます


Koch Robert

(wikipediaより)


[生]1843.12.11. ハノーバー近郊クラウシュタール
[没]1910.5.27. バーデンバーデン

1843年、ヘルマン・コッホとヘンリエッテ・ビーヴェントの間にニーダーザクセン州の東南にあるクラウスタール(ドイツ語版)(ハルツ近郊、現在ツェラーフェルトと合併しクラウスタール・ツェラーフェルト(ドイツ語版))で生まれ、ゲッティンゲン大学を卒業。
1876年、炭疽菌の純粋培養に成功し、炭疽の病原体であることを証明した。このことによって細菌が動物の病原体であることを証明し、その証明指針であるコッホの原則を提唱した。
1882年3月24日、結核菌を発見した。ヒトにおいて炭疽菌と同様に病原性の証明を行って、論文『結核の病因論』を著し、ヒトにおいても細菌が病原体であることを証明した(後にこれを記念して、3月24日は世界結核デーと制定された)。
1883年、インドにおいて、コレラ菌を発見。
1890年、結核菌の培養上清からツベルクリン(結核菌ワクチン)を創製。当初は治療用に使用することが目的だったが、効果がなかったため、現在では診断用のみに用いられている[2]。
1893年、妻エミーと離婚、30歳年下のヘドヴィグ・フライブルクと結婚。
1897年、王立協会外国人会員。
1905年、結核に関する研究の業績よりノーベル生理学・医学賞を受賞。
ベルリン大学で教鞭を執り、彼の弟子として、

ゲオルク・ガフキー - 腸チフス菌を発見した。
フリードリヒ・レフラー - ジフテリア菌の分離に成功し、口蹄疫ウイルスを発見した。
エミール・ベーリング - 血清療法の研究により1901年ノーベル生理学・医学賞を受賞した。
パウル・エールリヒ - 化学療法の研究により1908年ノーベル生理学・医学賞を受賞した。
北里柴三郎 - 破傷風菌を純粋培養し、血清療法を発見・確立し、ペスト菌を発見した。
などを輩出した。

1908年、北里に招かれ来日。
1910年、ドイツ南西部のバーデン=バーデンで逝去。66歳没

 

ドイツの医師。近代細菌学の開祖。特定の菌がある疾患の病原体であると決定するためのコッホの4原則を確立。

これにより細菌学が急速に発展した。

1876年に炭疽の原因が特別な細菌であることを実験的に証明し,

81年ゼラチンに肉汁を入れた培地で,細菌を純培養する方法を考案した。

82年に結核菌を発見,

83年エジプトとインドにコレラ研究のため出張してコレラ菌を発見した。

85年ベルリン大学教授,

90年には結核菌からツベルクリンをつくった。

91年ベルリンに伝染病研究所をつくり,

1904年まで所長であったが,この研究所へは全世界から近代細菌学を学ぶため,人々がやってきた。

日本の細菌学の父といわれる北里柴三郎もその一人である。

牛疫,アメーバ赤痢,ペスト,マラリア,睡眠病など各種の伝染病を研究し,

予防に尽した功績は大きい。

05年,結核研究の業務に対しノーベル生理学・医学賞を受けた。

コッホ Koch, Robert

1843-1910 ドイツの細菌学者。

1843年12月11日生まれ。

結核菌,コレラ菌などを発見し,1905年ノーベル生理学・医学賞。

明治41年(1908)来日して弟子の北里柴三郎(しばさぶろう)らの歓迎をうけ,各地で講演をおこなった。

1910年5月27日死去。66歳。

クラウスタール出身。ゲッティンゲン大卒。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+



ドイツの細菌学者

1876年家畜の脾脱疽菌 (ひだつそきん) を発見し,その純粋培養に成功した。

さらに結核菌(1882)・コレラ菌(1883)を発見したほか,ツベルクリン(1890)を創製。

のちアフリカやジャワで睡眠病・マラリアの研究に専念。細菌学の祖。

1905年ノーベル生理・医学賞を受賞。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「コッホ」の解説



ドイツの医学者,細菌学者。1876年脾脱疽(ひだっそ)菌,82年結核菌,83年コレラ菌など多くの細菌を発見し,細菌学の新領域を開拓した。1905年ノーベル生理学・医学賞を受賞した。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

世界大百科事典(旧版)内のコッホの言及
【医学】より
…しかし,19世紀前半は,まだミアスマ説に従った衛生改革が成果をあげつつあり,コンタギウム説はあまり支持者がなかった。
[研究室医学の発達]
 ドイツにおいて,細菌学時代を開いたR.コッホが,地方で診療の余暇に,家畜の病気,脾脱疽病の原因としての細菌を発見し,ヘンレの教えに従って,それを証明した論文(1876)を指導的地位にあった数人の医学者に送ったが,ほとんど反応がなかった。1880年になって,突然ベルリンに新設された帝国衛生院の研究主任として就任することを求められる。…

【結核】より
…結核にかかっている人,とくに肺に空洞をもつ人が咳をしたとき,まわりに結核菌を飛び散らし,近くにいる人が吸い込んで感染する。結核菌Mycobacterium tuberculosisは1882年R.コッホによって発見されたグラム陽性菌で,長さ2~4μm,幅0.2~0.4μmの細長い杆菌である(ライ菌と同じ仲間で,よく似ている)。菌型にヒト型,ウシ型,トリ型の3型があり,ヒトには前2者が感染する。…

【細菌学】より
…これらの研究によって微生物病原論はその基礎を築いた。炭疽の病原菌である炭疽菌は,76年にR.コッホが純粋培養に成功し,それを動物に接種すると発病したことによって,炭疽と炭疽菌との因果関係が明確に示された。医学的な細菌学は,これ以降発展してくる。…

【殺菌剤】より
…しかし,殺菌することによって発酵の停止や病気の予防に役立てようとするのは,それより約200年後になってからであった。殺菌剤の検査をはじめて微生物を使って行ったのはR.コッホで,1881年に絹糸に炭疽菌の芽胞を付着させたものを用いた。これは固定菌法と呼ばれるが,その後,ガーネットや金属など多くの物体に菌を付着させて,殺菌効果を判定する方法が考案された。…

【ツベルクリン反応】より
…ツベルクリンをアレルゲンとした抗原抗体反応をいい,結核菌の感染を受けているかどうかを調べる検査法として利用される。ツベルクリンは1890年,結核菌の発見者であるR.コッホによって,結核菌の培養ろ(濾)液を濃縮してつくられた。当初コッホが期待したように結核治療薬としては普及しなかったが,ピルケーClemens F.von Pirquet(1874‐1929),マントゥーCharles Mantoux(1877‐1947)らにより,ツベルクリン反応は結核感染の診断法として確立され,広く用いられるようになった。…

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

これから衛生学のエッセンスを学んで行きましょう。